日本料理の歴史~二十四節気

日本料理の歴史とは?


天地宇宙の大自然は、豊かな恵みを私たちにもたらしてくれる事もあれば、人の力ではどうする事もできない程の猛威を振るう事もあります。
八百万の神という言葉があるように、古来人々は自然のあらゆるものに神が宿っていると考えていました。

人々は、神へ食べ物を捧げ、五穀豊穣、健康、安全などを祈り、これらをもたらしてくれる神への感謝の意を表す儀式を行いました。
この神への供物を『神饌しんせん』(御饌みけ)と言います。神のために、特別に選び抜かれた食べ物(饌 食+選)という意味で、この神饌が日本料理の原型ではないかと言われています。

儀式が終わると、神饌を下げて皆でいただく饗宴が行われました。これを『直会なおらい』と言います。
神と同じ物を食べる事で、神と親密に結び付き、ご加護や恩恵を得られ、神の力を自分の中に取り入れる事ができると考えられていました。これを『神人共食しんじんきょうしょく』と言います。
神人共食は、日常にも取り入れられ、神だけでなく他の人達と同じ食べ物を分かち合って食べる事で、親密関係が増し、心を一つにして協力関係を強化できると考えられ、他の人と一緒に食事をする風習は、現代まで受け継がれてきました。

『魏志倭人伝』に「名日卑彌呼事鬼道能惑衆年巳長大無夫婿有男弟佐治國~」
(名を卑弥呼と言い、鬼道に仕え、呪術によって大衆の心を支配する力がある。年は高齢で、夫を持たず、弟が国を治める補佐をしている。~)と記されています。
卑弥呼は神を祭り呪術や占いで、神意を大衆に伝え、国を治めていました。神に供える神饌が、そのまま卑弥呼の食事となり、相嘗あいにえ(神と共に食べる事)したと伝えられています。
文献として残っていないため、正確な事はわかりませんが、後に相嘗祭あいなめさい新嘗祭にいなめさい神嘗祭かんなめさいへと確立されていったのではないかと考えられています。
日本書紀によると、「皇極天皇の時代に始まった」とされています。

今から1万3000年ほど前の紀元前縄文時代に、土器などの道具の発達で、木の実や肉や魚などを加熱して食事をするようになりました。
この頃は、肉類、魚貝類、海藻類、穀物類、ドングリ、クリ、クルミなどの堅果類、山菜、きのこ、果物など豊富に食べ物がありました。

2500年ほど前の縄文時代後期頃になると、寒冷化という気候の変化がおこります。やがて、これまでのように自然の恵みだけでは、食生活を送ることが難しくなることを知るようになった頃、大陸から稲作が伝来しました。

日本は低湿地が多く稲作には好適地であった事と、水田や水路の造成技術、木鍬きぐわ木鋤きすきの発達などで、全国に稲作が広まり、米を主食とし自然の恵みを副食とする食文化が誕生し、弥生時代へと移り変わっていきました。

魚を海水や水で煮た汁を『煎汁いろり』と言い、カツオの煎汁が最も上等とされていました。これが出汁だしのはじまりではないかと言われています。
煎汁は魚を煮詰めて作り、旨味が凝縮された煎じ汁で、調味料として使われていました。

これらが日本料理の起源と考えられていますが、文献が残っていないため日本料理の起源を、国家が正式に作った歴史書で720年に完成した『日本書紀』によるところとされています。

日本書紀53年条、景行天皇が、東国巡幸において、上総国に至り、海路から淡水門あわのみなと
(安房の水門)を渡る際に、覚賀鳥かくがのとり(ミサゴ)の鳴声が聞こえたので、天皇がその姿を見ようと海の中に入ると、白蛤うむぎ(ハマグリ)を見つけ、この白蛤をイワカムツカリノミコトがなますにして奉ったと記されている事から、磐鹿六鴈命(イワカムツカリノミコト)が、日本料理の開祖とされています。

600年、遣隋使が派遣された事によって、大陸から様々な文化、技術、食べ物などが伝わりました。

この頃の調理法は、生・焼く・煮る・蒸すで、味付けは食べる時に、塩・酢・酒・ひしおを付ける形でした。
調味料は、味付け以外に薬餌やくじ、消毒、殺菌の役目も兼ねていました。
醤は、調味料のほか食物保存の方法でもありました。
醤は、米、麦、豆などを発酵させ塩を含ませた穀醤こくびしお、魚貝類を発酵させ塩を含ませた魚醤うおびしお、鳥獣の肉を発酵させ塩を含ませた宍醤ししびしお、植物や果物を発酵させ塩を含ませた草醤くさびしお、があり後に醤油、味噌、漬物、塩辛、鮨へと発展していきました。さらに、食べ物を長期保存させる為、発酵食品や天日乾燥などの技術が発達していきました。

平安時代に入ると、饗応を目的とする『大饗だいきょう』と呼ばれる貴族の宴会が催されるようになりました。
饗応とは、相手を大事に扱う。大切に待遇する。人に対する振舞い方の事です。

大饗で出される料理を『大饗料理』と言います。
台盤と言われる大型の卓上に、食べ物が並べられ、食事作法に大変厳しい決まりがありました。

最初は『酒礼しゅれい』と言われる盃を巡らせる盃事から始まります。
お酒を一杯ふるまう事を一献と言い、ふるまわれたお酒は、3回で飲み干します。これが二献、三献、四献…と数回繰り返されました。
後に、巡盃は3回に定まり『式三献しきさんこん』と呼ばれるようになりました。

酒礼が終わると『饗膳きょうぜん』へ移ります。飯汁を中心とした食事がふるまわれ、次に『酒宴しゅえん』へと移り、肴と吸物がふるまわれます。
酒盃が交わされる間、様々な芸能が演じられました。

この頃『包丁式ほうちょうしき』が行われ始めました。
「包」とは調理場、場所を意味し「丁」とはその仕事に従事する人を意味します。つまり「包丁」とは、料理人を指します。
庖丁人ほうちょうにん」「庖丁者ほうちょうじゃ」「庖丁師ほうちょうし」と呼ばれていました。

生き物を食材にする場合、その生き物の命を奪う事になります。生き物の死は、けがれととらえられ、穢れたものを口にする事はできないので、生き物の命をいただく事への感謝の気持ちと、生き物の死を清める儀式として、包丁式が誕生しました。
包丁式では、魚に直接手を触れずに切るための真魚箸まなばし真魚板まないたが使われ、やがて客人の前で魚を調理して見せる、余興のようなものへと変化していきました。

包丁式は「生間流いかまりゅう」「四條流しじょうりゅう」「大草流おおくさりゅう」「進士流しんしりゅう」と4つの流派が生まれ、次第に公家社会だけでなく、武家社会にも広がっていきました。

鎌倉時代に入ると、仏教社会から精進料理が誕生しました。
精進とは、雑念にとらわれる事なく修行に専念し、正しい努力をする事を言います。
お釈迦様は、「過食や飽食は、心身共に怠惰たいだを生じさせる」と説き、その教えから精神を鍛錬して、人格完成を目指す時には、美食を避け粗食をする事も修業の一つであると考えられていました。
自分を厳しく律している修行僧が食べる質素な食事や、命あるものを殺す事なく、共存共栄をすると考える不殺生を重んじ、肉や魚を食べる事を避ける食事を、精進料理と呼ぶようになりました。
精進料理とは、このような意味を持つ食事の事を指します。

当時、大陸との交流が盛んに行われており、国家と深い結び付きがあった僧侶達は、今でいう通訳や外交官のような役目も担っていました。
そして、宋へと渡った僧侶達は、仏教を学ぶと共に、様々な文化、学問、技術、食べ物や調理法などを日本へと持ち帰りました。

仏教では、肉や魚などの命あるものの殺生を禁じられていた為、肉や魚に見立てた、「もどき料理」がたくさん考案されたのも、この頃とされています。
「がんもどき」は、その代表です。
また、点心てんしんも普及してきます。点心とは「空心くうしんに点ずる」という禅語が語源で、空心とは空腹、点とは少しを意味し、空腹をしのぐわずかな食事という意味です。当時の食事は2回だったので、一時的に空腹を満たす事を目的とした軽い食事が点心です。

宋へと留学し、禅を確立したとして有名な道元禅師は、宋で出会った老典座らによって、日常の全ての行いが、仏道の実践であり、その中でも特に料理を作る事、食べる事は、仏道そのものであると気づかされました。「典座てんぞ」とは、禅寺で料理を作る役職に就く僧侶の事です。
日常の作法を重んじた道元禅師は、後に典座の規則を記した『典座教訓てんぞきょうくん』を著しました。

武家社会では「禅」の精神の影響を強く受け、中身が充実し、質素で飾り気がなく、心身共に強く誠実であるという『質実剛健しつじつごうけん』を第一とし、力を強めていきました。

家臣(御家人)が将軍をもてなす饗応の儀礼として『垸飯おうばん』(椀飯)が行われました。
出される食事は、質素であったとされています。
次第に庶民にも広まり、親類縁者や知人などをご馳走でもてなす事を「椀飯振舞」や「節振舞」と呼ばれるようになり、「おうばん」は、気前よくふるまう事を意味する大盤振る舞いの語源となります。

相次ぐ戦乱の中、出陣前には三献の儀式が行われ、酒がふるまわれました。
その時、一緒に出される肴は、打ち鮑、勝ち栗、昆布の三種で「打って、勝って、喜ぶ」という語呂合わせで、縁起をかついだとされています。

古来「言霊」といって、言葉には魂や力が宿ると信じられてきました。
縁起の良い言葉に通じる食べ物を食べる事で、勝縁を祈願したと言われています。

室町時代に入ると、足利尊氏によって、新たな武家政権が創設されました。
この時代に入ると、さらに食べ物の種類や調味料、調理法も増えました。濃縮液の堅魚煎汁かつおのいろりに代わって、保存性の高いかつお節が考え出されたことで、出汁も確立したと言われています。

武家の儀式料理(式正しきしょう料理)としてできたのが、『本膳料理ほんぜんりょうり』です。
脚付きの膳に料理を並べ、最初に出される料理を一の膳と言い、一汁三菜が基本です。
この一の膳を本膳と言います。
二の膳、三の膳と出され、多い時で七の膳まで用意され、同時に能なども上演されました。
料理の並べ方、食べ方、服装などに細かな作法が決められていました。

掻敷かいしき(料理の下に敷く南天、ヒバ、ゆずり葉などの常緑樹の葉や紙)や、亀足きそく(紙で作った飾り)などで料理を飾る工夫もされ、次第に膳の数や贅を尽くした料理で、もてなし方を競い合うようになりました。

贅を尽くした豪華絢爛な本膳料理が発展する中、対照的な『懐石かいせき』(茶懐石)が誕生しました。
一休宗純に参禅し、侘び茶の創始者である村田珠光は、これまで単なる遊興や、通俗的でしかなかった茶の湯に、禅の精神を取り入れた侘び茶を完成させ、武野紹鴎へと受け継がれていきました。
そして、村田珠光や武野紹鴎の意思を継ぎ、千利休が侘び茶を「茶道」として大成させました。

空腹で濃い茶を飲むと、胃が荒れたり、苦味を強く感じてしまったりするため、お茶本来のおいしさを味わえません。そこで千利休は、お茶をおいしくいただいてもらう事を目的として、お茶を出す前に簡単な食事を出しました。
これを『茶懐石ちゃかいせき』と言います。

茶懐石は、本膳料理と精進料理、点心の良さを取り入れ、素材の持ち味を活かし、季節感、盛り付け、器にも心を配り、心を込めて客をもてなし、お茶をおいしく頂いてもらうための料理です。
「懐石」という言葉は、禅僧が温めた石(温石おんじゃく)を懐に入れ、寒さと空腹をしのいだというところからきていて、空腹をしのぐわずかな食事という意味があります。
また客人が来たときに、もてなす食べ物がなく温石を渡し「もてなす物がないので、せめて温石で体を温めて下さい」と、おもてなしの心を表現する意味もあります。

茶懐石は、侘び、寂びという美意識を表現し、食べる事の楽しさ、豊かさを心身共に味わい、この後出されるお茶をおいしくいただいてもらうため、心を込めて客をもてなす料理として発展しました。

侘び」とは、貧粗不足の中に、心の充足を見出そうとする意識の事で、「寂び」とは、閑寂さの中に、奥深いものや豊かなものが、おのずと感じられる意識の事です。

江戸時代に入る頃、細かい決まりがあった本膳料理は、簡素化され『袱紗ふくさ料理』として、一般の人達にも広がりました。
袱紗とは、略式を意味します。

本膳料理が衰退する中、『会席料理かいせきりょうり』が誕生しました。
本膳料理や精進料理、茶懐石と違い、酒の肴が中心の酒をふるまうための料理で、ご飯は最後に出されます。

俳人の会である俳席を「会席」(句会の席)と呼び、会席の終盤にお酒がふるまわれ、酒宴が開かれました。
「会席料理」は、本膳料理や精進料理や茶懐石の良さを取り入れた、酒をふるまうための料理として、現在へと受け継がれています。

それぞれの社会で、時代と共に発展し、現代へと受け継がれてきた日本料理(和食)に共通する事は、『感謝』と『おもてなし』の心、真心だと私たちは考えています。

2013年12月、「自然を尊ぶ」という日本人の気質に基づいた「食」に関する「習わし」を、『和食;日本人の伝統的な食文化』と題して、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。

 

「和食」の4つの特徴

  1. 多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重
    日本の国土は南北に長く、海、山、里と表情豊かな自然が広がっているため、各地で地域に根差した多様な食材が用いられています。
    また、素材の味わいを活かす調理技術・調理道具が発達しています。
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  3. 健康的な食生活を支える栄養バランス
    一汁三菜を基本とする日本の食事スタイルは理想的な栄養バランスと言われています。
    また、「うま味」を上手に使うことによって動物性油脂の少ない食生活を実現しており、日本人の長寿や肥満防止に役立っています。
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  5. 自然の美しさや季節の移ろいの表現
    食事の場で、自然の美しさや四季の移ろいを表現することも特徴のひとつです。
    季節の花や言葉などで料理を飾りつけたり、季節に合った調度品や器を利用したりして、季節感を楽しみます。
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  7. 正月などの年中行事との密接な関わり
    日本の食文化は、年中行事と密接に関わって育まれてきました。
    自然の恵みである「食」を分け合い、食の時間を共にすることで、家族や地域の絆を深めてきました。

                   (農林水産省ホームページより抜粋)

和食とは、大饗料理(有職料理)、精進料理、本膳料理(式正料理)、茶懐石、会席料理、寿司、天ぷらなどの専門料理、郷土料理などを全て含めて和食(日本料理)とされる事が一般的です。
このような料理そのものが、無形文化遺産に登録された訳ではありません。

日本の豊かな自然と共に育まれた四季折々の食べ物、並びに食文化と、自然を尊ぶ日本人の美意識などを、総合的に評価しての登録なのです。

古来、日本人は気候風土や食べ物など、人や生き物が生きるために必要な自然が与えてくれる恩恵に対しての感謝の気持ちを大切にしてきました。
大地や太陽、雨などの自然に育まれた植物や動物には、自然界の「気」が凝縮されています。

私たちは植物や動物を食べて生きています。
命あるものをいただき、自分の命をつなぐ事への感謝の気持ちと、自然が与えてくれる恩恵に対しての感謝の気持ちを『いただきます』という言葉で表現してきました。
「いただき」とは、山の頂上を指し、山の頂上には神が宿ると信じられていました。食べ物を頭上高く掲げる事で、山の頂に見立てて、謹んで感謝の気持ちを表現し、天地宇宙からいただいた食べ物を受け取りました。
ここからいただきますとは、「受け取る」「もらう」を意味する謙譲語となりました。

そして、今と違って昔は食べ物を手に入れる事は、大変困難なものでした。走り回って手に入れた食べ物を、鮮度を保つため急いで馬に乗ってり、せ参じたところから、食べ物を運んでくれた人達、そして食べ物を生産したり、調理したりしてくれた人達への感謝の気持ちを『馳走様ちそうさま』という言葉で表現してきました。
食べる前と、食べた後に感謝の気持ちを表現するのは、日本独特の文化です。

おもてなし」とは、裏表のない純粋な気持ちで相手を大事に想い、大切に待遇する人に対するふるまい方を指します。
この「感謝」と「おもてなし」の心が世界に認められたのではないでしょうか。

弊店では、食材を生産・採取してくれる生産者の方々に感謝し、材料の良し悪しに不平不満を言う事なく、材料を活かし、大切に調理して、食べる人のために心から尽くす『真心』を大切にお料理に込めていきたいと思います。
また会席料理の作法は、大変厳しく決められています。作法を重んじる事は大変素晴らしい事なのですが、作法を重んじるあまり、楽しく食事をする事ができなかったと言うことがないよう、一緒に食事をする方々が自由なスタイルで楽しんで頂きたいという意味を込め、弊店の会席料理は、創作会席としてご提供します。

真心を込めてお料理を提供し、楽しい時間を過ごして頂くお手伝いをするお店、
食材を提供して頂く、地元の生産者の方々への感謝の気持ちを持ち続けるお店でありたいと思っています。
また地元や佐賀県産の食材やお酒をメインに使い、日本料理の良さそして、日本料理の心を伝えていき、社会に貢献できるお店になれますよう日々努力していきたいと思っています。

数あるお店の中から、弊店のホームページを閲覧して頂きまして誠にありがとうございます。

 

日本料理と陰陽五行説


日本料理を知る上で、重要とされる概念の一つとして『陰陽五行説いんようごぎょうせつ』があります。陰陽五行説は、日本料理だけでなく、日本の文化や学問(陰陽道や占い)政治などにも役立てられてきました。
陰陽五行説は、『陰陽説』と『五行説』という別々の思想が一つになったものです。

陰陽説とは、「」と「」という二つの気が一つとなって成り立ち、それぞれ相反する関係でありながら、敵対する関係ではないという思想です。

陰は月、陽は日(太陽)を意味すると言われています。
この世は、月と日・男と女・天と地・昼と夜・偶数と奇数というような、相反するものが一つとなって存在しています。

「陰」と「陽」どちらが良くて、どちらが悪いと言うような思想ではありません。どちらも必要な因子で、互いがバランスを取り合い、良好な状態を『陰陽調和』と言い、またどちらにもかたよる事なく半々でバランス良くつりあった状態を『中庸ちゅうよう』と言います。

陰陽説がいつ頃誕生したのかを明確に書いた文献はありませんが『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん』 (孔子の編纂と伝えられる歴史書「春秋」の解釈書) 通称『左伝』の中に、「陰」と「陽」の二文字が記載されています。

「陰」「陽」「風」「雨」「晦」「明」を『天の六気』と言い、この六つの要素が天を動き回り、様々なものに影響するとされています。

一般的に陰陽説は、今から六千年くらい前に誕生したのではないかと考えられていて、古代中国の伝説の皇帝である『伏義ふっぎ』が確立した思想と伝えられています。
陰と陽が渾然一体となっている状態を『太極たいきょく』と言います。
この対極が、陰と陽に分かれ、陽の気は明るくて軽くて、動の性質を持っているので上昇し天となり、陰の気は暗くて重くて、静の性質を持っているので下に溜まって地となり、天と地の間に神(人)が生まれました。
この『天・地・人』を『三才』と言い、三才に存在する全てを『万物』と言います。

三才に存在する万物には、「かたち」があり、象はたくさんあるので、そこから「数」という概念が生まれました。
天は「一・二・三・四・五」を生み出し、五行が成立しました。
陰陽説は、どちらか一方では存在しないので、天に対する地が「六・七・八・九・十」を生み出しました。

「一・二・三・四・五」は五行を生み出した数なので『生数しょうすう』と呼ばれ、「六・七・八・九・十」は、生数を完成させる数という事で『成数せいすう』と呼ばれます。

五行説とは、万物は『木・火・土・金・水』と言う、五つの気が互いに影響を与え合い、生滅盛衰によって変化し、循環しながら成り立っているという思想です。
五行とは「天がつの気をめぐらせる」と言う意味です。

天とは「神が住む場所」「人を超えた存在」と考えられていて、気とは「神の働き」と考えられていました。

天が五つの気(神の働き)を行らせる事で、雨が降り、風が吹き、花が咲くといったような自然現象が起こると考えられていたのです。

『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五つの書を『五経』と言います。
その中の『書経』は、中国最古の歴史書で、中国周代(紀元前一〇四六年~紀元前二五六年)に成立した、周代の政治道徳を著した書物です。
『書経』は最初『書』、漢代に『尚書しょうしょ』、宋代に『書経』と呼ばれるようになりました。

『書経』の中の「洪範こうはん」という編で、初めて五行の言葉が出てきます。
洪とは「大」、範とは「法」を意味し「天地の大法」または「天下を治める大法」と言う意味があります。
殷を滅ぼした周の武王が、殷の箕子きしに教えを請い、箕子は禹王うおうから伝承された事柄を、武王に語って聞かせました。
これらを著したのが「洪範」です。

陰と陽が二つに分かれて気が起こり、陰の気を濡気じゅき(湿った気)、剛気ごうき(かたい気)、陽の気を温気おんき(温かい気)、強気きょうき(強い気)、陰と陽の両方を兼ね備えた気を、和気わき(穏やかな気)と言います。
濡気から水が、温気から火が、強気から木が、剛気から金が、和気から土が生まれました。

「一に日く水、二に日く火、三に日く木、四に日く金、五に日く土」この順番で五行が誕生したと語っています。
そして、それらの性質は「水は万物を潤し、高き所から低き所へ流れる性質(潤下じゅんげ)、火は燃え上がる性質(炎上)、木は曲がったり、まっすぐに伸びたりする性質(曲直きょくちょく)、金は自由に変形する性質(従革じゅうかく)、土は種まきと、収穫の性質(稼穡かしょく)」と説明しています。

陰陽説と五行説を融合させ、陰陽五行説を大成させた人物は、中国の『鄒衍すうえん』です。
鄒衍は、諸子百家の中の「陰陽家」と呼ばれる学者で、紀元前三〇〇年半ばから末頃に、斉王朝に仕えた人物であると言われていますが、はっきりとした生没年は不詳です。

五行説が成立するよりも、はるか昔に『時令じれい』という概念がありました。
時令とは、季節と為政者いせいしゃ(政治家)の政治のあり方を、一致させるものの見方や考え方で、農業と深く関わっていました。
為政者が季節の移り変わりを見定め、種まきから収穫までの手順を、人々に知らせたものが時令です。
人々は為政者の時令に従って農業を行うことで、安定した収穫を得ることができていました。

農は「曲」と「辰」からできた漢字で、「曲」は田畑を意味し、「辰」は主なる星、つまり北斗七星を意味します。

為政者は、北斗七星・北極星・四星(うみへび座、さそり座、みずかめ座、おうし座)の位置関係から、春夏秋冬(四季)を決定し、春夏秋冬に応じて、行うべき事を細かく決め、これに反するようなことがあれば、たちまち国が乱れ、争いが起こると信じられていました。

鄒衍は、この時令と五行を結びつけて五行循環に気づき、陰陽から生まれた「水・火・木・金・土」を「木・土・水・火・金」に並べ変えました。

木は土の養分を吸収し、土は水をせき止め、水は火の勢いを消し、火は金を溶かし、金(金属)は木を切るという、剋する(やっつける)関係性『相剋説そうこくせつ』を発見し、陰陽五行説を完成させました。

ここから約二〇〇年後の前漢末期頃、劉向・劉歆親子(父子)が『相生説そうせいせつ』を唱えました。
木と木をこすり合わせると火が発生するように、木から火が生じることを「木生火ぼくしょうか」と言います。
火が木を焼いた後には、灰が残ります。灰は土を意味し、火から土が生じる事を「火生土かしょうど」と言います。
土がたくさん集まって山となり、山には石が埋もれていて、石は金を意味し、土から金が生じる事を「土生金どしょうきん」と言います。
金が埋まっている山には、雲が生じ雨を降らせます。金から水が生じる事を「金生水きんしょうすい」と言います。
水が木を成長させます。水から木が生じる事を「水生木すいしょうぼく」と言います。
この循環が相生説です。

相剋とは互いに抑制したり、力を弱める事を言い、相生とは互いに助け合ったり、保強しあう事を言います。

劉向・劉歆親子が相生説を提唱したように伝えられていますが、鄒衍はすでに、相生・相剋の関係性を理解していたと言われています。

鄒衍は、物事の見方や考え方があまりにも壮大で、天の大きさを語るほら吹きと言う意味の『談天衍だんてんえん』と言うあだ名が付けられていました。
しかし鄒衍の影響力は大きく、鄒衍の思想が王朝交代に利用されたのでした。

五行の「木・土・水・火・金」を『五徳』として、各王朝はそれぞれ「徳」を担うと解釈されました。
徳とは「働き」の事で、黄帝は土のはたらきを担ったので、木の徳きを担った王朝の禹王に剋され、禹王は金の徳きを担った殷王朝のとう王に剋され、湯王は火の徳きを担った周王朝の文王に剋され、ぶん王は水の徳きを担った秦王朝の始皇帝に剋されたとして、鄒衍の思想が都合よく、王朝交代に結びつけられました。

その後、劉向・劉歆親子は、火の徳きを担った漢王朝の正当性を説明するために、短命で滅んだ秦王朝を無視して、秦王朝の前の木の徳きを担った周王朝から、火の徳きを担った漢王朝が誕生したと、強引に解釈し、五行を「木・火・土・金・水」と並べ替えて、五行相生説を提唱したと伝えられる事もありますが、この相生・相剋の成り立ちについては、『五行大義』と多少異なります。

木・火・土・金・水の五行の徳きを「五徳」と言い、五徳は「五常」を繰り返し行うことで、体得できると言われています。
五常とは、「常に怠ってはいけない五つの行い」の事です。

木の徳きは、地上を覆い茂るという性質があり、他人を思う広い心の事で、これを『仁』と言います。

火の徳きは、闇を消し明るく照らす性質があり、火が闇を消し、物事をはっきりさせ、正しい道を実践する事で、これを『礼』と言います。

土の徳きは、万物を地中に保つ性質があり、全てを維持し受け入れ、嘘をつかず、他人を欺かない誠実な事で、これを『信』と言います。

金の徳きは、硬くてつよい鋭利な性質があり、是非を判断し、法律や人の道に背かないよう善悪を区別して裁く事で、これを『義』と言います。

水の徳きは、潤い流れる性質があり、全てを潤し流れる水の如く万事を知り、道理に通じて聡明になる事で、これを『智』と言います。

この五常『仁・礼・信・義・智』を身に付けるための書物が、『五経』であると言っています。
五経とは、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』を指します。

陰陽五行説が日本に伝わったのは、継体7年(513年)ではないかとされています。
『日本書紀』に、儒教の古典である、五経に通じた学者(五経博士)である段楊爾だんようじが、百済くだらから送られてきたと記されています。

『日本書紀』巻一、神代上の一文です。

「古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙、及其淸陽者薄靡而爲天、重濁者淹滯而爲地、精妙之合搏易、重濁之凝竭難、故天先成而地後定、然後神聖生其中焉~」

「はるか昔、まだ天と地が分かれておらず、陰と陽もまだ分かれていなかった頃、混沌としていて鶏の卵のように固まっていない状態でした。
そこに、ほんのちょっとした兆しがありました。
その澄んで明るいものは、薄く広がって上昇し、天となりました。
重く濁ったものは、下に溜まって地となりました。
天となる、澄んで明るいものは動いて一つにまとまりやすかったのですが、地となる重く濁ったものは固まりにくく、固まるまでに時間がかかりました。
なので、天が先に生まれ、次に地が生まれたのです。
その後、その中に神が生まれました~」

雨が降り、風が吹く、花が咲き、鳥が鳴く、そして人の人生も天地の気の大きな法則に従って動いていると考えられていました。

古来日本では、天地の道理に従い調和すれば、災いを避け幸福が訪れると信じられていて、天地の働きである自然現象も、人の運も気によって成り立っていると考え、この気の働きを「神の働き」と考えたのです。
そして、この全てに宿る神を「八百万の神」と言うようになりました。

人は食べ物や空気など、天地から「気」(神の働き)をもらって生きています。
体によい気を与える食べ物を食べ、正しい呼吸をすれば健康を保てると考えられました。
人が天地宇宙の中で、自然の摂理に従い、逆らわずに自然をあるがまま受け入れ、一体となった境地を『天人合一てんじんごういつ』と言います。

欽明14年(553年)に、医博士・暦博士などが日本へ送られ、陰陽師おんみょうじたちによって、陰陽五行説は日本に合う形に調整され、日本独特の陰陽道が誕生しました。

日本で発展していった陰陽五行説は、隋の時代に古代中国の陰陽五行に関する文献を集めて、蕭吉しょうきつがそれらをまとめて著した『五行大義ごぎょうたいぎ』が大きく影響したと言われています。

『五行大義』が日本に伝わったのは、『続日本紀しょくにほんぎ』(平安時代初期に編纂された、勅撰史書)の天平宝字元年(757年)11月、癸未の勅に「五行大義」の文字が記されている事から、この頃ではないかと言われています。

自然界の全ての事象を、五行に当てはめる事を『五行配当』と言います。
五味・五色・五法・五覚・五適など陰陽五行説の法則に従い、発展してきたのが日本料理です。

五味とは、「さんかんしんかん(塩)」です。
酸は収斂固渋、体を引き締める作用があるとされ、五行配当では木に属し、春の味とされています。
肝を強化し、心を助ける働きがあります。
しかし、過剰摂取すれば、肝と脾を傷つけます。

苦は降燥、熱を覚まし鎮静作用があるとされ、五行配当では火に属し、夏の味とされています。
心を強化し、脾を助ける働きがあります。
しかし、過剰摂取すれば、心と肺を傷つけます。

甘は補養、血液を作り緊張を取り、緩和除痛の作用があるとされ、五行配当では土に属し、土用の味とされています。
脾を強化し、肺を助ける働きがあります。
しかし、過剰摂取すれば、脾と腎を傷つけます。

辛は発散解表、燥を湿らせる作用があるとされ、五行配当では金に属し、秋の味とされています。
肺を強化し、腎を助ける働きがあります。
しかし、過剰摂取すれば、肺と肝を傷つけます。

鹹は軟堅散結、体外排出の作用があるとされ、五行配当では水に属し、冬の味とされています。
腎を強化し、肝を助ける働きがあります。
しかし、過剰摂取すれば、腎と心を傷つけます。

五色とは、「青(緑)・赤・黄・白・黒」です。
食べ物を正確に五行配当するのは、大変複雑で専門的な知識を必要とします。
大まかな目安として、次のように五行配当します。

青(緑)は、葉野菜類、果実類(ビタミン・食物繊維)などで、木に属します。
肝を養い、心を助ける働きがあります。
しかし、過剰摂取すれば、肝と脾を傷つけます。

赤は、肉類・魚介類(たんぱく質)などで、火に属します。
心を養い、脾を助ける働きがあります。
しかし、過剰摂取すれば、心と肺を傷つけます。

黄は、穀物類(炭水化物)などで、土に属します。
脾を養い、肺を助ける働きがあります。
しかし、過剰摂取すれば、脾と腎を傷つけます。

白は、乳製品・脂肪類(脂質)などで、金に属します。
肺を養い、腎を助ける働きがあります。
しかし、過剰摂取すれば、肺と肝を傷つけます。

黒は、海藻類・きのこ類(ミネラル)などで、水に属します。
腎を養い、肺を助ける働きがあります。
しかし、過剰摂取すれば腎と心を傷つけます。

五法は、「生・煮る・焼く・蒸す・揚げる」。

五覚は、「視・聴・嗅・触・味」。

五適は、「適温・適材・適量・適技・適心」です。

適温は、温かいものは温かく、冷たいものは冷たく召し上がって頂く事。

適材は、食べる人の年齢や、性別や、体調などに合った食材を使う事。

適量は、多すぎず、少なすぎず程よい量の事。

適技は、技術にこだわり過ぎず、手を加え過ぎず、適度に手を加える事。

適心は、食べる人をもてなす心を持ち、食器や盛り付けに心を配る事。

陰のものと陽のものを和合させ、天地の法則に調和する食であるから和食と言われる所以なのかもしれません。

 

暦と陰陽五行説


暦(れき・こよみ)とは、時間の流れを年、月、週、日のように分けて数えたものを指します。
時代や国によって、さまざまな暦法が考え出されました。

古来四季のある日本では、暦を知る事で季節に溶け込み、自然の摂理に従って、幸せを願い感謝しながら、日々の生活を送ってきました。

日本は、六世紀後半頃に中国から伝来したと言われている『太陰太陽暦たいいんたいようれき』を、明治五年まで国暦として採用していました。

暦に欠かせない三つの要素があります。
月の満ち欠けの周期』『太陽の位置の周期』『十干十二支』です。

気の働きは、月の満ち欠けが関係していると考えられていました。
月は陰の性質を持つものなので『太陰』と言います。
月の満ち欠けの周期を「朔望月さくぼうつき」と言い、「朔」は新月で1日を意味します。
そして「望」は、満月を意味します。
新月から満月にかけて陰の力が少しずつ強まり、次の新月まで陰の力が少しずつ弱まって行きます。
この月の満ち欠けを基準にして定めた暦を『太陰暦たいいんれき』と言います。
月の1ヵ月の周期は、29.53日なので、29日と30日の組み合わせで、12ヵ月(1年)とするので、太陰暦の1年は約354.4日となります。

地球が太陽の周りを回る周期を基準にして定めた暦を『太陽暦たいようれき』と言います。
古代中国では、「土圭とけい」と呼ばれる棒を地面に立てて、この棒の影の長さを元に、地球が太陽の周りを一周する周期を、算出していました。
地球が太陽の周りを回る周期は約365.2422日で、4年で約1日のずれが生じる事になります。(365.2422×4=1,460.9688)
これを補正するために、閏日が定められました。

太陰暦と太陽暦の両方の要素を基準にして定めた暦を『太陰太陽暦たいいんたいようれき』と言います。
太陰暦では、月の満ち欠けの周期は約29.53日で、1年は約354.4日です。
太陽暦では、1年は約365.24日で、太陰暦と約11日の差が生じる事になります。

そこで3年に1回、19年に7回、1年を13ヵ月とする閏月を設ける事で、暦と季節のずれを補正しました。

古代中国では、太陰暦による1年のわずかな日数の差によって、数年後、暦と実際の季節のずれが起こるので、このずれを調整するために、『二十四節季』が設けられました。

二十四節季を求める方法は、1年を24等分(約15.2日)する恒気法(または平気法)と、太陽が天球上を通る道筋である黄道上の位置を、24等分した15度ごとに算出し、12の「せつ」と12の「ちゅう」に分ける定気法(または空間分割法)の二つがあります。

  • 立春りっしゅん(節) 2月4日頃
    寒の明けと言い、暦の上では春の始まりとされる日で、一年の始まりの日でもあります。
    八十八夜、二百十日、二百二十日は、立春から数えます。
    「春一番」とは、立春を過ぎてから最初に吹く強い南風の事です。
  • 雨水うすい(中) 2月19日頃
    降りるものが雪から雨に変わる頃とされています。
  • 啓蟄けいちつ(節) 3月6日頃
    「啓」はひらく、「蟄」は土の中で冬眠していた虫などと言う意味で、日に日に暖かくなり、冬眠していた虫たちが、土の中から出てくる頃という意味です。
  • 春分しゅんぶん(中) 3月21日頃
    昼と夜の長さが、ほとんど同じ長さになる頃です。
    春分の前後3日間を合わせた7日間の事を、「春彼岸」と言います。
  • 清明せいめい(節) 4月5日頃
    「清浄明潔」の略で、花や草木が芽吹き、空は青く澄み、清らかで穢れのないような頃と言う意味です。
  • 穀雨こくう(中) 4月20日頃
    雨に恵まれ、農作物がよく育つ頃と言う意味です。
  • 立夏りっか(節) 5月6日頃
    夏の始まりとされる日で、晴天が続き新緑が美しい頃です。
  • 小満しょうまん(中) 5月21日頃
    植物がよく生長して、生い茂る頃と言う意味です。
    田植えの準備を始める頃です。
  • 芒種ぼうしゅ(節) 6月6日頃
    「芒」とは、稲の穂先にあるトゲ状の部分の事で、穀物の種まきの頃と言う意味です。
  • 夏至げし(中) 6月21日頃
    太陽が高く昇り、昼の時間が最も長い頃です。
  • 小暑しょうしょ(節) 7月7日頃
    暑さが強くなっていく頃、小暑と次の大暑をたした約1ヵ月を「暑中」と言います。暑中お見舞いの便りを出す頃と言われています。
  • 大暑たいしょ(中) 7月23日頃
    本格的な夏の到来で、最も暑いとされる頃。夏の土用の時です。
    立春、立夏、立秋、立冬前の18日間を「土用」と言い、陰陽五行説の「土」に属します。
    土用と言えば、この夏の土用を指すようになってきています。
  • 立秋りっしゅう(節) 8月8日頃
    秋の始まりとされる日です。立秋を過ぎれば、「残暑」と言われます。
  • 処暑しょしょ(中) 8月23日頃
    厳しい暑さが終わり、少しずつ涼しくなってくる頃とされています。
  • 白露はくろ(節) 9月8日頃
    日中はまだ暑さが残るのですが、朝は冷え草に露がついて白く見える頃とされています。
  • 秋分しゅうぶん(中) 9月23日頃
    昼と夜の長さが、ほぼ同じ長さになる頃です。
    秋分の前後3日間を合わせた7日間の事を「秋彼岸」と言います。
  • 寒露かんろ(節) 10月8日頃
    本格的な秋の到来で、空気が冷えて霜になる前の冷たい露が草花に付く頃です。
  • 霜降そうこう(中) 10月23日頃
    秋も終わりを迎え、早朝に霜が降り始める頃です。
  • 立冬りっとう(節) 11月7日頃
    冬の始まりとされる日で、木枯らしが吹き始める頃です。
  • 小雪しょうせつ(中) 11月22日頃
    積もるほどではないが、初雪が舞い始める頃です。
  • 大雪たいせつ(節) 12月7日頃
    本格的な冬の到来で、山々は雪が積もり、平地でも雪が降る頃です。
  • 冬至とうじ(中) 12月22日頃
    太陽の位置が一番低くなり、最も夜が長い頃です。
    太陽の力が一番弱まる日で、翌日から再び陽の力がよみがえってくるので「一陽来復」と言い、この日を境に運が上昇すると考えられています。
  • 小寒しょうかん(節) 1月5日頃
    寒さの始まりを意味する頃です。池の水が凍り始める頃で、この日を「寒九の雨」と言って、豊穣の兆しがあると言われています。
  • 大寒だいかん(中) 1月20日頃
    一年で最も寒さが厳しい頃とされています。
    小寒の日「寒の入り」から立春の「寒の明け」までの約一ヵ月を「寒の内」と言います。

月の満ち欠けを基準にして定めた太陰暦の一ヵ月の月の周期は、29日か30日なので、この一ヵ月を15日に二分した単位を「半月」と言い、一ヵ月を10日ずつ三分した単位を「旬」と言い、上旬・中旬・下旬に分けられます。
さらに、一ヵ月を7日ずつ分けた単位を「週」と言われるようになりました。

七十二候は、5日を「一候」と言い、5日を一単位として日数を数えていました。
中国では昔、指は「かん」と称されていましたが、いつしか「干」と称されるようになりました。
そして干は10本の指を意味し、日を数える単位を「十干」と言うようになりました。

古代中国の文献に「指を折って日数を数えていた」と記されているそうです。
両手の10本の指を折って数え、三回繰り返すと1カ月となり、このように10本の指で日を数えました。
この10本の指に『こうおつへいていこうしんじん』を当てはめ、これに陰陽を配当しました。
陰陽は「兄」「弟」の関係(本来は兄、妹)で、これを「兄弟えと」と言います。

甲→(陽)、乙→(陰)、丙→兄(陽)、丁→弟(陰)、戊→兄(陽)、己→弟(陰)
庚→兄(陽)、辛→弟(陰)、壬→兄(陽)、癸→弟(陰)

そして、これを五行配当すると
甲→木「きのえ」、乙→木「きのと」
丙→火「ひのえ」、丁→火「ひのと」
戊→土「つちのえ」、己→土「つちのと」
庚→金「かのえ」、辛→金「かのと」
壬→水「みずのえ」、癸→水「みずのと」
と呼ばれるようになりました。

十二支は、星の運行と密接な関わりがあり、『辰星しんせい』の見える方角を十二支で表しました。
辰星とは、「主なる星」の事で、殷王朝までの辰星は、木星を指します。(時代によって辰星は変化します)

木星は太陽の周りを、12年かけて回る事を知っていた古代中国では、この木星の12年周期から十二支が誕生しました。
そして天空を十二分割し『ちゅういんぼうしんしんゆうじゅつがい』を割り当て、木星の見える位置を十二支で表すようになりました。

『十干』と『十二支』も、陰陽の関係があり十干の「干」は『幹』に由来し、十二支の「支」は『枝・葉』に由来します。
つまり、幹と枝(葉)からなる樹木の事で、幹(陽)と枝(陰)が調和して、万物を担い、成就するという意味があります。

十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞を『干支えと』(かんし)と言い、甲子に始まり、癸亥に終わるこの組み合わせを『六十花甲子ろくじっかこうし』と言います。
生まれてから60年経ち、生まれた年の干支を迎えることを『還暦』と言います。

『五行大義』では、「支干」と表記されています。その『五行大義』では、古代中国の伝説上の帝王である「黄帝」の師とされる「大撓たいどう」が、五行説に基づいて支干を作ったと記されていて、大撓が五行の名の由来、形、性質をしっかりと理解し十干と十二支を作ったと言われています。

後漢代の学者である「蔡邕さいよう」が著した『月令章句げつりょうしょうく』の中にも「大撓が五行の実相を採りあげて、北斗星の柄(斗機とき)の指す所を占い、はじめて甲乙という十干を作り、これを日に名づけて幹と言った。次に子丑という十二支を作り、これを月に名づけて支と言った。天上に事がある時には、日を用いて占い、地上に事があれば、月(辰)を用いて占った」と記されています。

「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」は、日を数えるために使用されたものですが、次第に意味が変わり『五行大義』では、植物の成長過程に例えられ、占いに使用されるようになりました。

甲は「箱(匣)」という意味があり、何か固くて頑丈な物(殻)に、物や生き物が封じ込められている種子のような状態を指します。

乙は「きしる」(きる)という意味があり、固い殻を突き破る状態を指します。

丙は「あきらか」という意味があり、固いアスファルトを持ち上げる芽のごとき力強い、成長の著しい状態を指します。

丁は「とどまる」という意味があり、著しく成長した状態が一旦、一休みする状態を指します。
または、「さかん」という意味もあり、元気にあふれ勢い盛んな状態を指します。

戊は「しげる」という意味があり、盛大に茂る状態や、成長が極まった状態を指します。また「貿える」という意味もあり、成長が極まるという事は、今までの姿を 貿えようとする様子を指します。

己は「おさめる」「筋道」という意味があり、枝葉の部分まで成長が完成し、樹木の形がおさまった状態を指します。
または「起こる」という意味もあり、物事が完成し、おさまった時、筋道が起こる様子を指します。

庚は「かわる」という意味があり、成長した状態が変わり、花が散ったり実がなったりする状態を指します。

辛は「しん」という意味があり、新しい状態になり次の段階へ至る状態を指します。

壬は「はらむ」という意味があり、固い殻の新たな種子が次に繋がる命を、育んでいる状態を指します。

癸は「はかる」という意味があり、種子が芽を出す準備を整えている状態を指します。

また十干と同様、十二支も植物の成長過程に例えられるようになりました。

子は北斗七星の形から生まれた字と言われ「」に由来し、「しげる」「うむ」という意味があります。
万物に生命が宿り、芽生える状態を指します。

丑は「ちゅう」に由来し、「紐でしめる」「つなぐ」という意味があります。
万物が芽吹き、成長していくのを紐で縛って繋ぎとめる状態を指します。

寅はうごくで「」「いん」に由来し、「うつす」「ひく」という意味があります。
万物が芽吹き、ようやく地面から出ようとするのを、引っぱり出し伸ばしていく状態を指します。

卯は「ぼう」に由来し、「おおいかくす」という意味があります。
万物の成長が盛んになって、地上を覆いかくす状態を指します。

辰は振うで「しん」に由来し、「震うこと」という意味があります。
万物が勢いよく身を震わせて、成長していく状態を指します。

巳は「」に由来し、「やめる」という意味があります。
万物の成長が極まり、元の姿がすでおわって、次の新しい成長へ向かっている状態を指します。

午は「」に由来し、「あたる」「さからう」という意味があります。
万物が盛大になり、いっせいに成長して大きくなる状態を指します。
また、枝葉が互いに擦れ合い、隆盛と衰退が争っている様子を捉えて、さからうという状態も指します。

未は「まい」に由来し、「暗くなる」という意味があります。
万物が次第に陰の気を増し衰え始め、その姿が隠れて暗くなる状態を指します。
また「味」という意味もあり、万物が成熟し、香りたち味わい深くなる状態を指します。
成熟するという事は、同時に衰退の始まりを意味しています。

申は「のびる」に由来し、「引く」「長」という意味があります。または呻くに由来。
万物が成熟の完成に向かって、突き進む状態を指します。

酉は「ゆう」に由来し、「老」「衰」という意味があります。
万物の成熟が完成し、老熟する事で衰退へ向かう状態を指します。

戌は「めつ」に由来し、「ほろぶ」という意味があります。
万物が完全に完成し、滅ぶ(殻に閉じこもる)状態を指します。

亥は「しん」に由来し、「とざす」という意味があります。またはとぢるに由来。
万物が種や地中(根)の中に入り、かくされてしまう状態を指し、やがておとずれる陽の気を待つ状態を指します。

このように陰陽五行説をはじめ、暦などの学問や思想を基礎として、長い年月をかけ少しずつ形を変えながら発展してきたものが「日本料理」です。
また学問だけでなく、箸や器など食事をする道具にも大きな意味が込められています。

 

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